赤津焼

茶器、花器、飲食器

赤津焼とは

赤津焼(あかづやき)は、愛知県瀬戸市の東部にある赤津町周辺で作られている陶器のことを指します。赤津焼の特徴は灰釉(かいゆう)、鉄釉(てつゆう)、古瀬戸(こぜと)、黄瀬戸(きせと)、織部(おりべ)、志野(しの)、御深井(おふけ)の七釉を使い、へら彫り、印花、櫛目、三島手などの12種類の多彩な装飾技法を用いていることが特徴です。1977年に、国の伝統的工芸品に指定。

産地:愛知県/瀬戸市

日本有数の陶磁器、瀬戸焼の生産地で、「瀬戸物」(せともの)という名称は、この地の古くからの地名である「瀬戸」に由来している。数十万人が参加するといわれる全国最大級の陶磁器イベント「せともの祭」が有名で、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)の2会場のうちの一つとしても記憶に新しい。また、千年のやきもの文化が街に息づく瀬戸市は道標や橋の欄干など、至るところがやきもので装飾されており、街全体を博物館に見立てた「せと・まるっとミュージアム」を展開している。

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赤津焼の歴史

赤津焼の起源はおよそ1600年前の奈良時代に焼かれていた須恵器(すえき)だと言われています。 平安時代には、日本最古の釉薬(植物の灰や石を砕いて水に溶いたもの。これを素焼きした陶器にかけ焼くことで水漏れを防ぎ,陶器に独特の色やつやを出す)、「灰釉」(かいゆう)が出現し、灰釉を使った陶器が焼かれるようになります。続いて、鎌倉時代には鉄釉、古瀬戸釉などが生まれ、こういった釉薬を用いた器へと発展していきます。 そして、時代は江戸時代初期、徳川御三家である尾張藩が作られます。藩への陶器の供給源や御用窯などを目的とし、赤津焼は尾張藩の御用窯として、高級茶器や日用食器を生産していくことになり、御深井(おふけ)、志野(しの)、織部(おりべ)、黄瀬戸(きぜと)、等の7種類が釉薬の技法として確立していきます。また、現在の赤津焼に通じる装飾技術も発展を遂げ、型押しで模様を描く「印花(いんか)」、波形や点線、渦巻きの模様を描く「櫛目(くしめ)」をはじめとした、12種類の装飾技法となりました。この装飾技法の発展は1200年以上続く赤津焼の伝統を支える重要な要素となっています。

現在、伝統を受け継ぐ窯は現在瀬戸市に60余り存在し、日本の窯業の一大中心地にまで発展しました。現在も茶道具、華道具、家庭用品と幅広い器が生産されています。