久留米絣
着物地、インテリア商品、洋装
久留米絣とは
久留米絣は、1800 年頃、井上伝という当時12~13歳の少女が、木綿の生地を織る前に糸を染め分けて絵柄を織り出す方法を考案し、爆発的な人気を博したことで基礎を築きました。 製織する際に生じる微妙な誤差が、かすれた様な風合いをもつため、絣と呼ばれるようになったと言われます。緻密でありながら、素朴で温かみのある絣模様は、小柄、中柄、大柄、絵絣まで、様々な種類があります。たて糸とよこ糸が織り成す紋様は精巧さを極め、美しく、木綿ならではの素朴な風合いがあり、いにしえのロマンを物語る逸品です。
産地:福岡県久留米市、八女郡広川町、八女市、筑後市、大川市、うきは市、三潴郡大木町
久留米市は、九州一の大河「筑後川」が北東部から西部にかけて貫流し、東部には屏風のように切り立つ耳納連山があり、広大で肥沃な筑後平野と共に緑豊かで美しい自然景観を誇っています。江戸時代は有馬家の城下町として、近代以降は久留米絣の町からゴム産業の町として発展しました。日本三大火祭りのひとつ、大善寺玉垂宮の「鬼夜」、日本三大マーチのひとつ「久留米つつじマーチ」など、四季折々の多彩な祭り・イベントが行われています。
久留米絣の歴史
久留米絣は、1800年頃、当時12~13歳だった井上伝(いのうえでん:1788~1869年)という少女の発案がきっかけで生まれました。 伝は、7~8歳のころから木綿を織り家計を助け、12、13歳の頃には大人も及ばぬ織り手となるほど器用な女性でした。 ある日、伝は着古した木綿織りの色褪せたところに白い斑点ができていたのに気づきます。そのことに着目した伝は、早速その布を解き、解いた糸の白い部分を参考にして同じような斑点模様が出来ないか試みます。糸を別の糸で括り、括った糸を藍で染めて、その括った部分を解き、機で織ってみると、織りあがった布には一面の白い斑点模様が現われたそうです。これが久留米絣の発端と言われており、伝はこの織物を「加寿利(かすり)」と名付けました。
この織物が世間で好評となり、伝の元には多くの弟子が集まりました。 伝40才の頃には、弟子は1000人にも及び、その内の400人ほどが各地に散らばり機業を開業しました。この時点で、久留米絣の生産が個人の趣味的生産から製造販売を目的とする自営業集団、つまり「久留米絣業」としての地位が創成されたことを受け、ここに久留米絣業(産地)の成立をみることができます。
久留米を中心とした筑後地方では、農家の副業として久留米絣が盛んに織られ、明治以降は庶民の衣服として全国で愛用されています。 その歴史的・芸術的価値が高く評価され、1957年には国の重要無形文化財に指定されました。和装や洋装、インテリア、雑貨など、暮らしの中に幅広く溶け込む久留米絣は、日本を代表する織物として、今もなお多くの人々に親しまれています。