西陣織

着物地、金襴(きんらん)、裂地、緞帳(どんちょう)

西陣織とは

西陣織とは、多品種少量生産が特徴の、京都西陣の地で生産される先染(さきぞめ)の紋織物の総称です。昭和51年に国の伝統工芸品に指定されました。 現在、「綴(つづれ)」「経錦(たてにしき)」「緯錦(よこにしき)」「緞子(どんす)」「朱珍(しゅちん)」「紹巴(しょうは)」「風通(ふうつう)」「綟り織(もじりおり)」「本しぼ織」「ビロード」「絣織」「紬」の12品目の織り技法が伝統工芸品の指定を受けています。

産地:京都府/京都市、宇治市、亀岡市、城陽市、長岡京市他

京都市は、京都府南部に位置し、府庁所在地であり、政令指定都市にも指定されています。市の中心部には、碁盤の目のように東西南北に大路小路が走り、元離宮二条城をはじめとする14 箇所の世界文化遺産や2000 を越える神社仏閣が市内各所に点在しています。歴史都市であると同時に、日本中、また世界中から観光客をひきよせる観光都市であり、更には、大学・短期大学をはじめ世界水準の研究機関が集結する学術研究都市、低炭素・循環型まちづくりのモデルを発信する環境先進都市でもあります。 年中行事の主要なものは祭りですが、京都には、祇園祭・葵祭・時代祭の京都三大祭をはじめ、お盆の精霊送り行事として室町時代から広まったと言われる「五山の送り火」や、秋の鞍馬の里が熱気に包まれる「鞍馬の火祭」など、各地域・各時期において、由緒ある様々な祭りが催されます。

西陣織を利用した記念品を
是非ご検討ください。

記念品例のようなお品はもちろん、便箋セットや和紙小物など、様々なご要望を承ります。

西陣織の歴史

西陣織の起源は古墳時代とされ、5、6世紀頃秦氏の一族が今の京都・太秦あたりに住みつき、養蚕と絹織物の技術を伝えました。 やがて平安京への遷都が行われます。上京区黒門上長者町あたりに住む絹織物技術を受け継ぐ工人(たくみ)たちを織部司(おりべのつかさ)という役所が組織し、国営の織物業が営まれ、その後織部町といわれる町をかたちづくっていたといわれます。また、この頃大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使用し色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)が可能になりました。こうして紋織による高級絹織物・西陣織の基礎が築かれ、その産地としての西陣が確立されました。

「西陣」の由来は室町時代11年間続いた応仁の乱(1467-1477)が終わり、各地に離散していた織物職人たちも京都に戻り、戦乱時に山名宗全率いる西軍の陣地が置かれていたあたりで織物作りを再開しました。この頃から、戦乱以前から織物の町として栄えていた京都北西部の一帯が「西陣」と呼ばれるようになりました。

その後、豊臣秀吉などによる保護を受ける一方、中国・明の技術を取り入れるなどして、優れた織物を生み出し京都をはじめ、わが国の絹織物業の代表的存在になりました。 江戸時代になり、西陣はさらに繁栄。ちりめんや縞の開発にも至りました。しかし、江戸時代も半ばを過ぎると、度重なる飢饉、幕府による奢侈(しゃし)禁止令、二度の大火、そして丹後や桐生など新しい絹織物産地が生まれたことや首都が東京に移されたことにより西陣織は大きな痛手を受けます。 しかし、海外の先進技術の導入に積極的かつ柔軟であった西陣では、文明開化のチャンスにいち早く呼応。フランスからジャカード織物などの技術を取り入れ、近代化に成功したのです。

大正や昭和になり、高級絹織物の大衆化を進めると同時に、伝統的な手織技術の高度化や図案・デザインの洗練に励み、高級織物業と言えば「西陣織」という代名詞としての地位を確かなものにしていきました。 さらに現在では、西陣織製品の用途の拡大にも取り組み、帯地、着物などの伝統的な商品に留まらず、ネクタイやショール、和装小物など幅広く、格調高いすぐれた製品を生産。その活躍の場を革新的に広めています。