大洲和紙(五十崎和紙)
障子紙、書道用紙
大洲和紙(五十崎和紙)とは
清流小田川の美しい水から作られる手漉き和紙・大洲和紙。国の伝統的工芸品に指定をされています。職人たちが一枚一枚手作りで仕上げる和紙は、土地の暮らしに根付き大切に育まれてきました。その特徴は、楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・雁皮(がんぴ)・麻・竹・わら・トロロアオイを原料として作られていることです。大洲和紙の中でも三椏で漉いた、かな用書道半紙はなめらかでにじみにくく、その質、量はともに日本一と称され、書道用紙は全国の書家に愛用されています。また、3~4年経過し、枯れた状態の書道半紙は、さらに滑りが良くなり独特の味わいが表現できるといわれています。
産地:愛媛県西予市、喜多郡内子町
愛媛県の南予地方に位置する西予市(せいよし)は2004年に東宇和郡4町(宇和町・野村町・城川町・明浜町)と西宇和郡1町(三瓶町)の5町が新設合併して誕生した。旧5町のうち旧宇和町は江戸時代より宇和島藩の宿場町として栄え、その中心部(卯之町)に残る歴史的景観は、重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。内子町(うちこちょう)は、愛媛県の南予地方に位置する町。白壁と木蝋のまちづくりを進めてきた。キャッチフレーズを「エコロジータウンうちこ」とし、農村景観保全や農産物の直売、農村民泊、グリーンツーリズムなどの、交流人口の受け入れ、第一次産業の活性化などの取組みで全国的にも知られている。
大洲和紙(五十崎和紙)の歴史
伊予(愛媛)の紙の歴史は古く、平安時代の書物・法令集の「延喜式(えんぎしき)」に、その名を確認することができます。また、島根県高津神社に伝わる「紙漉重宝記(かみすきちょうほうき)」によると、万葉の歌人である「柿本人麿呂」が岩見の国で紙漉の技を伝えたとされています。この「紙漉重宝記」には、大洲和紙の原料となる楮やトロロアオイの刈り取りから、半紙の仕立てる様子が詳細に明記され、「その術たちまちにして伊予の大洲に伝われり」と記されています。
その後、幾多の盛衰を重ねながらも、元禄時代に宗昌禅定門俗名善之進が越前から越前奉書の技術を導入し、大洲藩紙漉の師としてその技術を指導します。これにより、大洲和紙は藩内の主要産業として繁栄を極め、以来大洲藩は藩の財源として大洲和紙を扱ってきました。また江戸後期の農学者である佐藤信渕の「経済要録巻10」によれば、大洲和紙は大阪に出荷をし、「品質日本一」として価値を高めていった記録が残されています。
そして、明治中期には改良半紙が多く生産され、三椏(みつまた)を中心とした紙づくりが盛んになります。明治42年~大正5年にかけては、紙づくりに欠かせない清流の源である小田川付近に、多くの工場が建設されます。明治末期にはその業者の数は430名にまで及んだといわれています。しかし、機械文明の発達と共に終戦時にはその数は74名まで減少をします。
その後昭和52年10月、伝統的工芸品に指定をされ、現在も手作業にこだわり続けた職人の志、その技法は新たな形を取りながらも、現代に受け継がれています。