遠州綿紬

織姫様ゆかりの地、浜松の伝統的織物

遠州綿紬とは

「嫁ぎ先で可愛がってもらえよ、素晴らしい物に作ってもらえよ。この布は、まさに”自分のムスメを嫁に出す”。そんな気持ちで織っている。」機屋(はたや)さんが語ってくれた言葉です。遠州綿紬は、1つの布が完成するまでに、それぞれの工程で、職人さんがプライドをかけて伝統を守り、昔ながらの製法で丁寧な手作業を繰り返しています。どこか懐かしいぬくもりあふれる風合いは、人の手によって育まれているのです。綿軸の原料となる綿の糸を、一定の長さの糸を巻いて束ねた「かせ」と呼ばれる状態に巻き取ります。きれいに巻けるように手作業で配慮をしながら、たくさんの糸を一気に巻き上げていきます。
糸を漂白(精錬)し、そのあとに指定の色を染色します。糸を熱湯で洗う事で、植脂分やアクを落とし、糸に色が入りやすくなります。釜の中で、染料を溶かした熱湯をかけ、染めていきます。
糸の毛羽立ちを抑え、布を織りやすくするために、糊(のり)を糸に染み込ませます。織りの摩擦で糸が切れないようにする工程です。糊が温かいうちに糸量の割合を見てそれぞれつけ込み、均一に糊をよく馴染ませたあと、バタバタと少し仰ぎ整えます。
糸の束を、再び糸巻きへと仕上げます。染め、糊付けが終わった「かせ糸」を巻き取り、「いもくだ」という状態にします。糸が絡まないよう、切れないように、目を光らせて糸を巻き取ります。
たて糸を並べて、縞の模様になるように整えます。本数や色合いなど縞柄にはいくつもの組み合わせがあり、配列の順序によって縞柄が決まります。整えた縞柄が崩れないように1本1本並べた順に、「おさ」と呼ばれる櫛状の穴の中に糸を通していきます。「おさ通し」が終わると、一斉に糸を巻き上げます。たて糸を「機(はた)」にのせ、織り上げていきます。よこ糸に何色を使うかによって、仕上がりの色合いが変わってきます。1つの織機で、1日に約3~5 反、ゆっくりと織り上げていきます。
このょうな工程を経て、遠州綿紬は作られているのです。

産地:静岡県浜松市

遠州綿紬の産地である静岡県遠州地方(浜松市)では、江戸時代に農家の冬仕事として「機織り」が始まったとされています。機織りには棉(わた)を糸の状態にする工程や染める工程など、様々な工程があり、それぞれが得意分野を担当したことが分業制 につながったと伝えられています。遠州地方は温暖な気候と豊かな自然に恵まれ、 棉作り(わたづくり)に適していて、三河、泉州とならび、綿の三大産地として栄えました。

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遠州綿紬の歴史

遠州綿紬はいつからあるのでしょうか。日本で綿作が全国各地に広まったのは江戸時代中期以降。中でも遠州は良質の綿産地で、全国に先駆けて機織(はたおり)が盛んな地域として知られていました。特に1845年浜松藩主の井上河内守正春が藩士の内職として機織を奨励したことから、ますます当地域に独特な縞木綿(しまもめん)と呼ばれる織物が生まれ、特徴を活かしながら発展。当時交易の盛んだった笠井の市で取引されたことから笠井縞(かさいじま)と呼ばれました。地域の綿織物はやがて取引市場の広がりから「遠州縞(えんしゅうじま)」と総称されるようになったといわれています。ここで、「遠州織物の母」と呼ばれている一人の女性を紹介しましょう。名前は小山みゑ(1821年生)。彼女は藩士の家に奉公して織物技術を習得、数名の工女を雇い、現在の浜松市中区木戸町で織物業をスタート。遠州綿織物を一大産業に成長させる土台を築きました。そこで働く工女たちがやがて各地に嫁ぎ、機織技術を広めていったのです。技術が広がると、中には質の悪い製品も出回るようになります。そこでみゑは「永隆社(えいりゅうしゃ)」という織物同業組合を作り、さらに働きやすさを提供することで織物の質を向上させていきました。その後、明治11年に臥雲辰致(がうんたつむね)発明の和式紡績(ガラ紡)が三河方面から移入され、明治17年には天竜二俣に遠州紡績会社設立。明治29年には豊田佐吉による小幅力織機(こはばりきしょっき)が発明され、織物生産はみるみる増加していきました。こうして昭和初期まで遠州織物業は繁栄を極めますが、1970年代以降になると、化学繊維の普及や海外生産へのシフトによる大量生産の波を受け、少しずつ生産が少なくなっていきます。しかしそれ以降も、変わらぬ愛情を持つ職人さんたちの手によって、柄数を増し品質向上を図り、今もなお織り続けられている・・・それが遠州綿紬なのです。