郡内織物

今に続く山梨の伝統の織物

郡内織物とは

郡内織物とは、山梨県の郡内(富士吉田市・西桂町含む)地域で織り出されている織物の総称です。郡内織物の歴史は古く、約1000年も前から織られていたと言われています。平安時代の書物には「甲斐の布」という言葉が残され、江戸時代には全国でもトップクラスの織物産地として栄えました。主に絹織物であったことや甲斐国の他の場所でも織物が行われており、「甲斐絹」や「甲州織」といった呼び名も存在します。その繊細かつ高度な技術は今でも職人たちに受け継がれています。現在、郡内織物は、婦人服やインテリア、裏地の生地のほか、国産ネクタイ生地としても使用されています。

産地:郡内地方(北都留郡、大月市、上野原市、都留市、富士吉田市および南都留郡の一部)

郡内地方(ぐんないちほう)は、山梨県都留郡一帯を指す地域です。1000年以上前から織物が盛んに作られてきました。中心都市は大月市、富士吉田市、都留市などです。御坂山地と大菩薩嶺を境とした県東部地域で、北都留郡・南都留郡にあたり、相模川水系・多摩川水系の流域となります。県西部地域は国中地方呼ばれ郡内地方と対比されます。
国中地方は平坦な甲府盆地が広がりますが、郡内地方は急峻な地形の山林が多くを占めます。気候は、国中地方の盆地特有の内陸性気候に対し、郡内は全域で夏に雨が多く、冬は晴れの日が多いです。気温は、全般的に昼夜・夏冬の寒暖の差が激しくなっています。

郡内織物を利用した「和」の記念品例

郡内織物を利用した記念品を
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記念品例のようなお品はもちろん、便箋セットや和紙小物など、様々なご要望を承ります。

郡内織物の歴史

徐福の伝説
2,000年以上前の紀元前219年、秦の始皇帝から【不老不死の薬を探す】という命を受けて、家来の徐福が日本を訪れたと言われています。ですが、薬が見つからず、日本の地に住むこととなり、徐福が高い織物の技術を富士吉田市の里人に伝えたと言われています。

郡内織物の歴史は古く、約1000年も前から織られていたと言われています。平安時代の書物には「甲斐の布」という言葉が残され、江戸時代には全国でもトップクラスの織物産地として栄えました。
江戸時代の贅沢を禁止されていた時期には、武士や町人は、指定された素材や染め色の衣服を着ることしかできませんでした。そのため江戸っ子は、服の裏地で「粋」を競っており、細かく上質で、綺麗な色と柄を織れる郡内織物が江戸っ子たちの「粋」な気質に好まれました。「京都の織物は郡内のものには及ばない」と言われたほど、優れた織物技術が江戸中に知れ渡っており、織物産地の中心的存在となりました。

昭和になり戦争が始まると、戦争に使う金属として約9,300 台もの織機を差し出すように命令され、多くのハタヤは生産が不可能となりました。終戦を迎えると、生地を織れば織るほど飛ぶように売れる「ガチャマン」時代と呼ばれました。「ガチャッとひと織りすれば1 万円儲かる」といわれるほど、景気の良い時代となりました。昭和の終盤に差し掛かると、安い外国産の織物がたくさん出回るようになりました。少しずつ近代的な設備に替えていった機織り産地でも、大きな打撃はまぬがれず、多くのハタヤが織物から離れていきました。現在でもその技術が継承されており、各織物会社が独自の個性を磨き、織物を作り続けています。