美濃焼
茶器、花器、飲食器、置物
美濃焼とは
岐阜県、東美濃(東濃地方)で生産される多種多様なやきものを「美濃焼」と呼ばれています。 1300年という長い歴史と伝統に支えられた美濃焼は、食器類の生産が全国シェアの約60%を占めており、日本のやきものの代表といっても過言ではありません。日常生活のなかで何気なく使われ、知らないうちに生活にとけこんでいるやきもの、それが「美濃焼」です。
産地:岐阜県多治見市、土岐市、瑞浪市、可児市
岐阜県の南東部に位置し、中央部を西流する土岐川が大きな特徴となっています。古くから土岐川流域で産出する窯業原料を利用した陶磁器(美濃焼)産業が盛んで、現在でも和洋食器の出荷量が輸出、国内向けとも全国一を誇るこの地域の基幹産業です。
美濃焼の歴史
美濃地方では、平安時代より土師器(はじき)、須恵器(すえき)、※灰釉(かいゆう)を焼き付け、鎌倉・室町時代には、山茶碗(やまちゃわん)・古瀬戸(こせと)・灰釉(はいゆう)と鉄釉(てつゆう)が焼かれていました。 (※平安時代のものは灰釉「かいゆう」と呼ばれています。) 室町時代後期(1500年頃)になり、山の頂上付近に「大窯(おおがま)」と呼ばれる単室の窯が築かれ、灰釉・鉄釉のやきものが作られるようになりました。 その後、灰釉は焼き流れしない釉薬に改良されたものができ、「黄瀬戸(きぜと)」となりました。又、窯の中より色見を引出したことから、引出し黒を見つけ、※「瀬戸黒(せとぐろ)」が生まれました。 (※引出し黒又は天正黒とも呼ばれています。)
織田信長や豊臣秀吉の桃山時代になり、千利休や古田織部等による茶の湯の流行から茶陶の世界が生まれ、灰釉に長石(ちょうせき)を加えた「灰志野(はいしの)」を作り出し、次に長石だけの「志野(しの)」が作られるようになりました。 そして、日本において初めて筆書きの文様付が可能になりました。やがて、山の斜面を利用した「連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)」と共に、斬新なデザインのやきものが生まれました。これが美濃のやきもの「織部(おりべ)」の誕生です。 このように味わい深い「黄瀬戸・志野・織部・瀬戸黒」等が作り出された桃山時代は、日本を代表するやきものが生まれた時代でした。 江戸時代に入ると、日常生活に使われる食器が大量に生産されるようになり、幕末には、白くて硬い磁器が焼き始められ、その後、生産性も上がり全国的に流通するようになったのです。 今では、和食器の全国生産の60%以上を生産する陶磁器の生産地になっています。