土佐和紙

日本一の薄さを誇る和紙

土佐和紙とは

土佐和紙は高知県土佐市の伝統工芸品です。福井県の「越前和紙」、岐阜県の「美濃和紙」と並び、三大和紙と呼ばれています。土佐和紙が発展した理由は、良質な石灰や原料が豊富にとれたことと製紙業に必要な清らかな水に恵まれていたからです。土佐和紙の特徴は、種類の豊富さと品質のよさです。主な原料は、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)になります。特に中山間地でつくられる土佐の楮は繊維が長く絡みやすいため、薄くても丈夫な紙を漉くことができます。国の無形文化財に指定されている、「土佐典具帖紙(とさてんぐじょうし)」(文化財の修復などに使用)と「土佐清帳紙(とさせいちょうし)」(書道用の紙などに使用)は、ともに楮を原料とし、厚さは違うものの両方とも強くて丈夫な紙として世界中からその品質が認められています。昭和51年(1976年)には、土佐の手漉き和紙が「土佐和紙」という名称で国の伝統的工芸品に指定されました。土佐の山で育った楮や三椏を、仁淀川や四万十川など、土佐の清流の水で漉いています。原料が見えるようなゴツゴツとした野性味あふれる紙にも、典具帖紙のような薄い紙にも、等しく土佐の自然が息づいています。

高知県は森林面積が84%を占める、森林率日本一の県です。高温多雨多湿の気候風土から育った森は、清らかな水を育み、四万十川(しまんとがわ)、仁淀川(によどがわ)、吉野川など全国に知られた清流の元となっています。高知県は、豊かな森林と綺麗な川が多くある地域です。 この恵まれた自然環境が調和し、豊かで変化に富んだ風土がつくられてきました。 北は四国山地で愛媛県、徳島県に接し、南は太平洋に面して扇状に突き出していることが特徴的です。 面積は約7,104平方キロメートルで四国四県では一番広く、全国では18番目に広い面積を有しています。そんな高知県の中でも土佐和紙の産地である土佐市は、高知県のほぼ中央部に位置し、県庁所在地の高知市から車で約20分の距離にあります。市の東部は石鎚山系を源流とする仁淀川下流の右岸に広がる高岡平野に小都市を形成し、北部および西部は山に囲まれ、南部は太平洋に面 していて日照時間は年間2230時間で日本一を記録しています。市域は東西約14.5km, 南北約6.4kmになります。

土佐和紙を利用した記念品を
是非ご検討ください。

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土佐和紙の歴史

土佐和紙の歴史は1100年前の「延喜式(えんぎしき)」という書物で、すでに紙が作られていた記録が残されています。また約800年前、鎌倉幕府の検地により、吾川郡大野郷(伊野町)や中村郷(春野町)から「杉原紙」を13帖差し出した記録が残っています。「杉原紙」はいまの奉書のような上等の紙を差し、この頃にはかなり高度な製紙技術を持っていたことが伺われます。戦国時代、いの町成山で草木染めの技術を加えて開発された「土佐七色紙(柿色・黄・紫・桃色・萌黄(薄緑)・浅黄(薄青)・青の染め紙)」は、土佐藩から将軍家への献上品として保護されることとなり、これによって土佐和紙の名が広く知られるようになりました。慶長の初め(1600年ごろ)、伊予国宇和郡日向谷村(ひゅうがい)の新之丞が、成山村(現在の高知県伊野町)にきて、より近代的な上質紙を漉く技術を教えたという伝説がありますが、越前(福井)にも同様に「紙漉きの新之丞の伝説」があり、また九州でも、慶長年間に筑後八女郡から肥後に流れた紙漉きの新之丞の史実があることから、いずれが真実かは断定しがたいのですが、このころ日本各地の和紙産地で一定の技術革新があったことや、一般の人々が自由に諸国を行き来出来なかった当時に修験者や修行僧たちが、紙漉きや染色など手工業の技術の伝播に一役買っていたのは間違いないと思われます。藩政時代には、特別に保護された「御用紙漉」という職があり、土佐藩で使う紙を漉いていました。当時すでに土佐和紙の抄紙と染色の高い技術が評価されていたことがわかります。