コラム
私の持っている伝統工芸品~久留米絣~
2021.04.30
こんにちは、これいい和の岡山です。
今回は、私が持っている伝統工芸品の久留米絣 名刺ケースについてご紹介させていただきます。
そもそも久留米絣という伝統工芸品を皆様はご存知でしょうか。
中には「初めて聞いた」という方や、「当然知っている」という【かすりすと】の方もいらっしゃるかもしれませんね。
(【かすりすと】に関しては、後ほど触れていきます)
では、まず久留米絣とはどのような伝統工芸品かということをお伝えできればと思います。
久留米絣とは
久留米絣(くるめがすり)は、福岡県南部の筑後地方一帯で製造されている絣のことをいいます。
絣とは、かすったような柄に見えることから名づけられ、糸を先に染めてから織ることで柄をだす綿織物です。
糸を染めてから織ると柄の輪郭がわずかにズレてにじんだようになり、これが久留米絣独特の風合いを生んでいます。
生産されているもののほとんどは着尺(きじゃく)の綿織物で、織幅が1尺(約38㎝)の織物になります。
括り(くくり)とよばれる技法であらかじめ染め分けた糸(絣糸)を用いて製織し、文様を表すことが特徴で、伊予絣、備後絣とともに日本三大絣の一つともされています。
久留米絣の技法は1957年に国の重要無形文化財に指定され、1976年には経済産業大臣指定伝統工芸品に指定されました。
久留米絣の代表的な織り方として、下記の3つが挙げられます。
・経絣 (たてがすり) : たて糸だけにくくった糸を使って柄を織る方法。
・緯絣 (よこがすり) : よこ糸にくくった糸を使って柄を織る方法。
・経緯絣 (たてよこがすり) : たて糸とよこ糸、両方にくくった糸を用いて柄を織る方法。
それぞれに柄を合わせることが難しく、高い技術が必要になります。
歴史
久留米絣の歴史は、江戸時代の後期に、井上伝という当時12歳(13歳という説もあり)の少女が創始したとされています。
井上伝は、幼い頃から織り物をはじめたこともあり、この頃すでに城下町で上質な織物を制作する腕があったといわれています。
久留米絣が生まれたきっかけは、井上伝のふとした疑問がきっかけとされています。
伝は、色があせ斑点のようになった使い古しの紺色の着物を見て、この糸はどんなふうになっているのかと疑問に思いました。
伝は着物を解きほどき、糸がまだらに染まっているのを見て、「先にこの糸と同じように染めておくことで、同じような模様ができるのではないか」と考え、糸を白くしたいところを縛って染める技法を考案したようです。
これを「加寿利 (かすり)」と名付けて売り出したところ、たちまち評判となったようです。
伝は技術の開発だけでなく、後継者の育成も行ないました。その結果、伝が40歳になるころには弟子は1000人以上もいたとされています。
1839年頃には、同じく久留米に住む大塚太蔵が絵絣を作り、絵絣はその名のとおり絵柄を自由に表現できる技法で、久留米絣の柄の可能性が大きく広がったとされています。
さらに1846年頃、現在の八女市 (久留米市に隣接する市) に住む牛島ノシによって、ごく小さい斑紋のような屋根板絣などの小絣が作られ、その功績から伝と共に後世に名を残すこととなりました。
幕末になると、倹約令により多くの藩で絹織物を着ることが禁じられたため、庶民の多くは綿織物を身につけるようになり、細やかな模様の入った久留米絣はおしゃれな綿織物として藩外に広まっていったようです。
明治時代には久留米絣も政府の地方産業振興の奨励により、急速に技術が発展。貫絣、十字絣、小合中絣、棒絣など絣柄の種類が格段に増えていきました。
しかし、1877年に起こった西南戦争をきっかけに久留米絣の品質が低下してしまいました。
久留米が明治政府軍の基地となり、戦後に兵士たちが久留米絣を土産物として持ち帰ろうと需要が急増したが、相次ぐ増産により正規の工程を経たものを作ることができず、粗悪品を販売してしまったことが原因となり、一時久留米絣は信頼を失ってしまったようです。
大正時代には、久留米絣は品質の高い絣として安定した人気を誇るようになっていた。大正末期から昭和初期頃には、足踏み織り機や、動力織り機なども登場し、生産高は200万反を超えていました。
大東亜戦争以降は久留米絣にとって苦難の時代で、大東亜戦争の際に綿織物の生産が禁じられたことが大きな痛手となり、戦後になると着物人口の減少と急速な洋服の普及から、さらに苦境に立たされることとなりました。
しかし、1957年に国の重要無形文化財に久留米絣が指定されたことで、再び追い風が吹き、これをきっかけに保護育成の取り組みがはじまり、久留米絣は大きく息を吹きかえしていきました。
そして1976年、久留米絣は国の伝統的工芸品にも指定され、最高級の本綿織物として現在でも日本中で愛されています。
また、久留米絣をこよなく愛する人達のことを【かすりすと】と呼ばれるようになりました。
私の久留米絣名刺ケース
さて、久留米絣がどのような伝統工芸品かはお分かりいただけたかと思います。
その上で、私が持っている名刺ケースのご紹介をさせていただきます。
この久留米絣の名刺ケースは、私が一番初めに購入した伝統工芸品で、思い入れが深い商品でもあります。
名刺ケースを新しくしようと考えていた時に、何気なくこの久留米絣の名刺ケースを手に取りました。
その時に、この久留米絣の名刺ケースの何ともいいがたい素朴なデザインに一目ぼれをし、その場で購入しました。
名刺であれば、20枚前後が入り、型崩れすることもありません。
人によっては「もっと名刺の枚数が入らないと・・・」という方もいるかもしれませんが、私の仕事上直行直帰などは少なく、オフィスに帰れば予備の名刺もあるため、出かける前に20枚ほど入れておくことができれば、その日は確実に足りる状態でしたので、ちょうどよいサイズ感でした。
人と会い名刺交換をする際には、「オシャレな名刺入れですね」とほめていただくことも多く、会話のきっかけにすることも多くなりました。
ハイブランドや有名ブランドの名刺ケースもいいのですが、こういった伝統工芸品の名刺ケースは持っている方も少なく、目に着くようです。
周年記念品として名入れもできる
この久留米絣の名刺ケースは、企業名等の印刷もできるため、企業様や法人様の周年記念品としての実績や、海外の方向けのお土産としての実績も多くあります。
そのため、社長の地元が九州だという企業様や、九州地方に所縁のある企業様の記念品にもピッタリなのです。
こちらの久留米絣の名刺ケースと同じ形で博多織の名刺ケースもありますので、是非ご興味がありましたら、これいい和までお問合せ下さい。
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