コラム

上杉鷹山×米沢織

2021.05.24

こんにちは!これいい和の池田です。
「ニッポンの 記念品なら これいい和」

今回は前回のコラムで「渋沢栄一について~武州藍~」のコラムがあったかと思いますが、そちらの「歴史上の偉人×伝統工芸品」第2弾のご紹介をさせていただきます。

 今回ご紹介するのは「上杉鷹山×米沢織」です。米沢織とは、米沢藩第九代藩主の上杉鷹山が産業振興として「青苧」を原料とする麻織物からはじまった織物です。

米沢織の特徴は自然の染料を使った「草木染」。紅花などの植物染料を使った、風合い豊かな先染織物が有名で、「縮(ちぢみ)」という技術が導入されております。強い撚(よ)りをかけて強度を高めた糸で織られており、「しぼ」と呼ばれる細かなしわが表面に出ているのが特徴です。また「多品種少量生産」体制で、イタリアのコモに匹敵する世界一の織技術を持ち、袴地の生産高も日本一となっています。

染色

織物は繊維の種類や撚りの方法によって風合いが異なります。染色も重要な作業です。
多種多様な糸は、職人の技術と経験によって染められます。
糸繰り機で、カセから枠に糸を巻き取ります。
経糸を必要な長さと本数に揃え、織機にセットできるようにします。

製織

織機には、手織り機や機械の動力で織る力織機があり、手織り、ジャカード織、ドビー織などの織り方が行われています。

仕上げ

布の幅をそろえ、しわをのし、光沢を与えるなど、丁寧に仕上げが行われます。品質など細かなチェックをします。

後染の場合は前加工を施し、染色し、仕上げをします。全国からも織物が集まり、加工されています。

縫製

織上がった反物などを仕立てます。

詳しいご説明はこちらを参照ください。

そして、この米沢織を広めた人物が「上杉鷹山」になります。

上杉鷹山は坂本龍馬のように世の中的に有名な偉人ではありません。ただ、知っている人は知っているような人物になります。

例えば、第35代のアメリカ元大統領 ジョンFケネディ。彼が日本人記者から『日本人の中で、1番尊敬する人物は誰ですか?』と質問された時名前を出したのが上杉鷹山でした。

ちなみに、米沢市の方々は今でも上杉鷹山の事を「鷹山公」とお呼びしているそうです。

上杉鷹山が活躍したのは、江戸の中期になります。元々、高鍋藩(現在の宮崎県児湯郡)の秋月家の次男として生まれます。「国の第一は人材」と考え遊学を勧める父を見て、鷹山もまた、楽しんで学んでいきました。そんな鷹山に転機が訪れます。なんと、僅か9 歳で米沢藩の次期お殿様(藩主)に任命されます。ですが、その当時の米沢藩には借金が120億円もありました。一言で言うと、日本一貧貧乏な藩。そこのリーダーが上杉鷹山でした。

当時の米沢藩の人々は借りたものは返さない。欲しいものは奪うが当たり前でした。でも当時の人々は悪いとは思っていなかったのです。何故なら、そうしないと自分が生きていけないからです。なので、当時の人々は自分さえ生きていければそれでいいという考えでした。そんな米沢藩を変えていったのが上杉鷹山です。

ですがそんな鷹山も初めて米沢をみた時、「ああ、ここに住む人々は希望をなくしている。希望がないから心が死んでいるんだ。自分に米沢を変えることなど出来るのだろうか。」と不安な気持ちを抱えておりました。その時、煙草の灰を入れておく冷え切った灰鉢を見つけました。何気なく手でかき回すと、一つの小さな火種を見つけました。鷹山が何気なく優しく「ふーっ」と吹くと小さく、じわーと赤くなりました。それをみて近くにあった新しい炭をその火種の隣に置き、もう一度「ふーっ」と吹くと炭に火が移り、燃え始めました。それをみて思います。米沢での改革もこのようにできないだろうか。まずは私が火種となり、まわりの人の心に火をつけていく。そうすればその火が隣の人に、また隣の人へと続き、いつか米沢を明るく照らす改革をしていこう。まさに上杉鷹山が考えたことは「一燈照隅万燈照国」の精神でした。

上杉鷹山が行ったことは、【トップ自ら動く】です。当時のお殿様というのは、お城の中にいるか、参勤交代しているかがほとんどでした。つまり自分の藩がどういう状態なのかは、あまり知りませんでした。そんな中鷹山が行ったことは、「この時代他の藩主がやってない事」でした。

上杉鷹山が行ったことは自らが馬も使わず米沢を歩いて回り現状を把握していました。その途中で農民たちと一緒に自らクワを持って畑を耕すこともしていきました。

それだけではなく、生活の無駄を省くため、衣服から食事まで一汁一菜と質素なものにしていきます。

すると米沢の人々は『今回のお殿様は信用できるかもしれない!』と感じ、心が変わっていきました。中には武士にも関わらず、刀を置いてクワを持ち新田開発に取り組む人々も出てきました。そのような人々に鷹山はこう話します。

「他藩の侍なら、このような苦労は感じないだろう…。おまえたちに、このような痛苦を味わわせるのは、私に藩主としての力がないためである。どうか許してくれ。いまより、おまえたちひとりひとりに酒を注ぐ。それはまず、おまえたちへの詫びである。次に、この荒地に挑むおまえたちへの励ましである。そして何よりも、おまえたちひとりひとりの胸に燃える火に油を注ぐためでる。どうか、胸の火を絶やすな。炎となって燃えつづけてくれ」

そういい終えると、ひとりひとりに、「頼んだぞ」と声をかけ酒を注いでいったと言います。

上杉鷹山が行ったことに殖産興業があります。上杉鷹山は自分のお城の中で桑の栽培と養蚕をおこなっていきました。普通ならそれをそのまま売買する事を考えますが、上杉鷹山が行ったことは「より付加価値をつけて販売する」ことでした。それが「織物」でした。上杉鷹山は、越後から織物の専門師を迎えて、織場を設けました。そして織り方を家中の女子に習得させ、織りだされたのは青苧を原料とする麻織物つまり米沢織になります。

その後、織物は麻織物から 麻絹交織、絹織物へと移行します。真綿が原料の紬織物は米沢紬、長井紬、白鷹紬と呼ばれ置賜紬に発展していきます。 明治に入り、化学染料による染色方法が普及、力織機の改良開発が行われ、米沢織の海外輸出が始まります。大正には、 力織機への転換、日本初の人造絹糸が発明され製造も始まりました。戦後の洋装 化に伴い、米沢織の服地は新分野を確立、 絹や化合繊などあらゆる種類の糸を組み 合わせ手のこんだ製品を作り上げます。  現在、米沢織は高級服地として海外有名ブランドに使用されています。

そうなったのも上杉鷹山が米沢織を作り、米沢の方々が後世に技術を繋いでくれたお陰だと思います。

最後に上杉鷹山の言葉で締めたいと思います。

 「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」

 意味は

 「なにかをやろうと思って行動すれば、どんなことでもできるようになる。 ただ待っていて、何にもしなければ良い結果はないし、できるようにはならない。 できないのは、その人がちゃんと行動しないからだ。」

ということです。

つまり「とにかく、行動すること!」ということです。

決めたことをやりきろうと行動することです。
明日やろうかな…。今日はやめておこうかな…。ではなく、
すぐにやろう!今日からやろう!と決めて行動すると、いつか実現するときが来ます。

上杉鷹山が米沢織を広めていったように、これいい和も工芸界を「一燈照隅万燈照国」の精神で盛り上げいきます。

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