コラム

渋沢栄一の原点は「藍」だった ― 武州藍からひも解くその思想

2026.04.07

こんにちは。
これいい和です。

今回のコラムでは、そんな渋沢栄一の歩みをたどりながら、その背景にある「武州藍」という日本のものづくりにも目を向けていきます。

人物を知ることは、その時代や文化を知ること。
少し視点を変えて見ることで、日本の伝統や価値観がより立体的に見えてくるかもしれません。

もくじ
1 渋沢栄一の功績
2 渋沢栄一の生い立ち|誕生~青年期
3 渋沢栄一の人生|徳川幕府時代
4 渋沢栄一の人生|明治新政府時代~実業家時代
5 渋沢栄一の思想
6 関連リンク

1 渋沢栄一の功績

皆さんは、「日本資本主義の父」と呼ばれている渋沢栄一を知っていますか?

渋沢栄一は、2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、そして2024年以降は新一万円札の顔になるということで大注目されている人物です。

渋沢栄一はなんと500の以上の企業の設立に関わったと言われています。
それだけでなく、設立した会社は現代社会でも重要なインフラを担っている企業が多く含まれています。例えば、みずほ銀行、JR東日本、東京電力、東京ガス、東宝、帝国ホテルなどなど、ほとんどの方が知っている企業ばかりですよね。渋沢栄一が「日本資本主義の父」と呼ばれるのも納得です。

さらに、日本だけでなく、現代経営学の権威であるピーター・ドラッカーも渋沢栄一について、「20世紀に日本は経済大国として興隆したが、それは渋沢栄一の思想と業績によるところが大きい。」と書いています。

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2 渋沢栄一の生い立ち|誕生~青年期

渋沢栄一は、1840年2月13日に武州地方の血洗島で市郎右衛門(いちろえもん)とゑいの長男として誕生しました。

渋沢家は、藍玉の製造販売と養蚕(ようさん)を兼営しながら、お米、麦、野菜の生産も手掛ける経済的に豊かな農家だったそうです。原料の買い入れから製造、販売までを担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められました。

渋沢栄一も父と共に信州や上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ調達にも携わっていました。

14歳になると単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この経験がのちのヨーロッパ視察の際に近代的な経済システムなどを吸収する下地となり、現実的な合理主義思想の形成にもつながったと言われています。

他にも、5歳から父より漢籍の手ほどきを受け、7歳から従兄の尾高惇忠(じゅんちゅう)のもとに通い、論語を始めとした四書五経や日本外史を学びます。
剣術は元川越藩剣術師範で近隣に在郷の大川平兵衛より神道無念流を学びました。

1858年には尾高惇忠の従妹にあたる尾高千代と結婚しています。
1861年には江戸に出て幕末の儒学者である海保漁村(かいほぎょそん)の門下生になり学びを深めていきます。

また、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結び、その影響で尊王攘夷の思想に目覚め、1863年には従兄の尾高淳忠と従兄の渋沢喜作らとともに高崎城を乗っ取り、武器を奪い、横浜の外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画を立てました。しかし、尾高淳忠の弟である尾高長七郎の懸命な説得により中止することになりました。

その後、親族に被害が及ばぬよう勘当を受けた体裁を取ったうえで、従兄の渋沢喜作と連れ立って京都に出ます。その際に江戸遊学の際に縁のあった一橋家家来の平岡円四郎の推挙により一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えることになります。

3 渋沢栄一の人生|徳川幕府時代

士官後、兵力調達が急務だった際、栄一が一橋家領内を巡回し農兵の募集で手腕を発揮しました。

1866年12月に主君の徳川慶喜が将軍になったことに伴い幕臣となります。
討幕を考えていたにもかかわらず、幕府に仕えることになるというすごい人生ですよね。

1867年にはパリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する徳川慶喜の異母弟である徳川昭武(あきたけ)の付き添いでフランスへと渡航します。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問しました。その際、各地の先進的な産業・諸制度を見聞し、近代社会の姿に感銘を受けます。

パリ万博、ヨーロッパ各国の訪問後、パリに留学する予定でしたが、大政奉還に伴い1868年には新政府から帰国を命じられ、徳川昭武と共に横浜港に帰国しました。

帰国後は静岡に謹慎していた徳川慶喜と再会し、「これからはお前の道を行きなさい」との言葉をかけられるも、恩に報いるため静岡にとどまり静岡藩に仕えました。静岡ではフランスで学んだ株式会社制度を実践することや、商法会所を設立しました。商法会所では銀行的業務と物販販売を兼ねていました。

1869年には、静岡藩での実績が認められ、明治新政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わっていきます。

4 渋沢栄一の人生|明治新政府時代~実業家時代

計量に用いる長さ・体積・重さの基準を定めた制度や国立銀行に関する条例の制定に携わりました。
しかし、予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立し、1873年に井上馨と共に退官しました。

大蔵省を辞職した栄一は、自ら設立を指導した第一国立銀行(現みずほ銀行)のトップに就任しました。大株主の三井組(三井財閥)、小野組の頭取二名の上にたち、日本最初の銀行の創業を担いました。公益になる民間取引を軸とした銀行の路線を確立し、新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開していきました。また、全国に設立された多くの国立銀行の指導、支援も行っていきました。

1892年には、東京貯蓄銀行(現りそな銀行)を設立し、栄一は取締役会長を務めています。
更に、第一国立銀行のトップに就任したのと同時期に抄紙会社(現:王子ホールディングス)を設立し、瓦斯掛(現:東京ガス)の委員にもなってガス事業を計画しました。1876年には、秀英舎(現:大日本印刷)の印刷業創業や、中外物価新報(現:日本経済新聞)の創刊を支援しました。1879年には東京海上保険会社(現:東京海上日動火災保険)の創立発起人となり、保険業創業を支援しました。1881年には日本鉄道会社(現:JR東日本)の理事委員となり設立に参画、翌年には東京電灯会社(現:東京電力ホールディングス)の発起人にもなります。

代表的な会社のみご紹介しましたが、この他にも多種多様な企業の設立や運営に関わり、その数が冒頭にもある500以上にのぼります。ここまでで渋沢栄一がどれだけ偉大な人物か、そして現代の日本にも深く関わっているかが分かっていただけるのではないでしょうか。

5 渋沢栄一の思想

渋沢栄一の思想は、「論語と算盤」とあるように、利益を追求することと、公益のためになることを調和させようとする「道徳経済合一説(どうとくけいざいごういつせつ)」を大切にしていました。
渋沢栄一が「道徳経済合一説」を大事にしていることは、企業の設立だけでなく大学などの教育機関の設立や社会事業にも関わり、日本赤十字社の設立にも力を注いでいましたことからもわかります。

どうすれば、自分だけでなく周りも豊かに出来るのかを考え実践していった渋沢栄一は、まさに多くの人が学ぶべき人物だと思います。コロナ禍で多くの方が苦しんでいる中、自分に何が出来るのか、どうすれば公益のためになるのかをいま一度考え直す必要を感じました。
「今だけ、金だけ、自分だけ」ではなく、未来を見据え、公を考え、周りを笑顔にしようと考えれば、自分の思ってもいないような出会いや成果が付いてくると思います。

最後に渋沢栄一の言葉を紹介したいと思います。

「一個人がいかに富んでいても、社会全体が貧乏であったら、その人の幸福は保証されない。その事業が個人を利するだけでなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない」

さて、この記事を読み少しでも渋沢栄一に興味を持っていただけましたら、是非「論語と算盤」を読んでみてください。大変な状況の今だからこそ、偉人の考え方に触れることで現状を打破するヒントを見つけることが出来るはずです。



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